イベントレポート
●アイカム50周年企画「30の映画作品で探る”いのち”の今」
    第7回 ストーリーとしての”いのち” 生命への畏敬と科学的探求の関係を考える <2019年5月5日(日)> 

       ■ 映写   ドーム映像

            2012   『いのち探検I ミクロちゃんと行く宇宙の旅』   32分

            2015   『いのち探検II すべてのはじまり』   44分
上田: 市民科学研究室の上田です。それでは今から1時間ばかり、みなさんとお話ししてみたいと思います。今日はゲストとして、上智大学の島薗進さんをお招きしています。(拍手) ご存知の方も多いと思いますが、日本の宗教学の第一人者といいますか、本当にたくさんの著書を書かれて、ご活躍なさっています。
 今日は、アイカムの一般向けにドーム上映することを前提に作られた二つの作品を見ていただきましたが、みなさんもいろんな感想をお持ちになったと思います。どんなふうにしてこんな映像を作ったんだろうというような素朴な疑問を持たれた方も多いかと思います。みなさんからも質問や意見を出していただきながら、進めてみたいと思います。
 島薗先生に、まず見られていろんな印象をお持ちになったと思うんですが、アイカムの制作スタッフに聞いてみたいこともおありですか?
島薗:
私も70歳になりまして、はじめてこういうのを見て、世界観が変わっちゃうんじゃないかな・・子どもの時にみていたら、だいぶ違ったのではないかな、と思ったんです。これは、どのくらいの人がみていますか。学校などでもやっていますね。
川村: アイカムの川村です。第1話が2012年に完成し、第2話が2015年に完成したんですが、その後、小学校・中学校にも持っていき上映もしていますが、これまで、第1話を見た人が4,200名、第2話を見た人が1,000名ほどです。
上田: 合わせて5,000人ぐらいの人がみているということですね。
島薗: 僕の時代の理科では習っていないようなことなんですけど。(笑) 皆さん、今の話はだいたい、わかっていたという感じなんですか。
上田: どうでしょうか。理科で習っていないのは当然だとしても、これはだいたい知っていた事実だと思える方でも、「こういうことだったんだなあ」と受け止めたり、あるいは「これは全く知らなかった」と思うシーンもあったのではないでしょうか。
HC: いや、全然知らなかった。むずかしかったです。これは本当のことなんだろうか、どうしてこういう映像ができて、本当に私たちの体の細胞で起きていることなのか、あるいはCGでできたのか。そういうのが全然わからない。
上田:
実写もたくさん入っていたけど、CGもあった。では、どこまでが本当でリアルなのか、そういう疑問をもったということですね。
MK: 私、英語教師なんですが、医学が好きなもので4年間、医学を勉強しています。ミトコンドリアはエイリアンみたいに、外部のものが、中に入ってきた、というのは知っていたんですよ。知っていたんですが、ああいうふうに画像を見せられたのは不思議な気がします。
上田: 知っていたとしても、画像、映像として表現されるとすごく不思議な感じがするというご意見ですね。
FY: 映像も本当にびっくりする体験でしたが、ただ驚くばかりで・・ドーム映像の形がどうしてできるのか過程がわかれば、少しは理解が深まるのかな、
上田: なるほど、ちょっとスタッフに確認してみましょうか。一つは、実写とCG、どんなふうに組み合わせているのか、あるいはほとんど実写なのか。もう一つは、ドームに映し出されて私たちが驚くような迫力ある映像になっているんですが、実際にはどういう機材を用いて作られたのか。
川村:

CGか実写かということでは、生きた細胞レベルの映像は全部、実写です。すい臓の細胞も、肝臓の細胞も、心臓の細胞も、それから実際に動いている心臓も全部実写です。細胞の中に入り込んで、ミトコンドリアの中でATPが作られるとか、分子、原子のレベルになるとCGで描かないと表現できません。電子顕微鏡で撮影した写真を仲立ちに、実写からCGの世界に繋がっているところもあります。
 ドーム映像は、どう説明したらいいのか・・生きた細胞や組織の映像は、社内で培養して顕微鏡撮影したり、小動物の体の中を撮影します。ドームというのは、スクリーンが普通の平面ではなく、映像に包まれた感じがします。それは、この曲面のスクリーンに合わせて、映像をなじませるように計算し配置し、構成しているということで、ご理解いただけるでしょうか。
上田: 実際に、アイカムの映画を今まで見た方、ご経験あると思いますが、アイカムの中には実験室・培養室があり、いろんな顕微鏡を備えた撮影室があり、実写は、借りて来た映像ではなく、全部、自社で撮っているんですね。ドームの曲面に関しては、普通に撮影した映像をドームにそのまま写しても、歪んで見えちゃうんですよね。そのへんに特別な工夫があるということですね。
●世界観のもと  宇宙・いのち
島薗: 一つ目の作品と二つ目の作品で、だいぶ違うと思いますね。最近「チコちゃんに叱られる」を見てますが、私が本当に「自分はぼおーっとしているなあ、そうなのか」と思ったのは、後の第2話の方です。前の第1話の方は、まあ知っているストーリーなんだけど、ミクロちゃんと一緒に細胞の世界に入って、細胞の内側のいのちから見るという、それがドームの中にいる感じと合っていて、膜の中にいる。そういう感じをたっぷり味わった。それはそれですごく面白いのですが。
 後の方、がマクロとミクロが全部くっついているので、これは世界観全体をガーンとやられている感じ。まあ、ビッグバンから始まっていることもあって、もし、もっと若い時にこれを見たら、自分の存在のもとになるものが、作られるのではないか。宗教のもとになるようなものがあるような気がしますね。
ですから、若い時にこの世界を知ったら、たっぷり味わったら、最後に「宇宙の記憶に還っていく」という文字で出て来たメッセージがありましたよね。そういう世界観になるんじゃないかな。若い人がこういうものを見て、育ったらね。なんかそんな感じがしたんです。
上田: 一作目と二作目では、皆さんも違った受け止め方をなさったのではないかと思いますが、いかがでしょうか。今の島薗先生の話を受けて、宇宙の生成と、自分のいのちの生成を重ねてみる、という考え方、そういうものを自分の中で体験したならば、いろんなものに対する価値観が、宗教も含めて、変わってくる、違ったものになるんじゃないかなということを示唆していただきましたが・・どういう印象を持ちましたか。
MY: NHKスペシャルで、細切れではだいたいこういうのをやっている時があるので、それを見て知ってはいるけど、なかなか自分の血となり肉とはならないんですよね。今、先生が言われたように、この知見が本当に血となり肉となっていたら、世界紛争とか、政治的対立とか、もうほとんど変わってくるのではないかと思うくらい、宗教的なものも含めて、人類のものの考え方に影響を与えるなあ、という印象がありました。
上田: なるほど、いのちの根源に立ち戻れば、いろんな宗教的対立も含めて、乗り超えられるのではないかな、みたいな感じですかね。
MY: その可能性を秘めたものではないかな、と思いました。
●サイエンスと宗教と・・
IY: 私は科学館に勤めていて、職業柄、こういうのはかなり見慣れているんですが、ミクロな視点で、こういう生命の根源とか、それが宇宙の起源とつながっていることを、素粒子の視点から描くのは非常に重要だと、かねてから考えていました。 今、環境問題が何十年も前からいろいろ言われていますが、非常に、地球に優しくとか、一見、とっつきやすいところから入るんですが、その本質は、というのが重要で、原子・分子と今の我々、地球システムがどうつながっているのか、ということを理解することを起点に、今のエコ活動を考えるのが重要だと思います。そういう意味でも非常に重要な映像作品だと思います。
上田: NHKスペシャルでも取り上げている話題はあるし、科学館でもいろいろ映像を扱っていると思いますが、こういう全体を繋げたストーリー性のあるものは、今まであったんでしょうか。
IY: 結構、少ない、と思います。うちの科学館で一本作ったのがありますが、それも宇宙と生命とそして今の私たちの生活をミクロ視点でつないだものです。ただ、このミクロ視点でつなぐというのを一定数の方は、受け入れられないということが必ずあるんですね。その辺のバリアを感じていて、そこも今日も議論になるのかなと思っています。
HC: 今日、ヒッグス粒子とか聞いたことがあるな、と、そういう科学に全く疎い人間が見ていて、素粒子のレベルから見るって、二作目に入っているのは、一応、科学の世界ではこれはこういうことだろうと、共通了解が成立している事柄なんですか。だいたい地球上の科学者が合意していること? それとも科学者の間で、嘘だとか、違うのではないかと異論があったり、決まっていないことがあるのか。
IY: ええ、合意されている、非常に確立したサイエンスです。
上田: もちろんサイエンスですから、変わってくる部分があるかもしれませんが、今の時点では、合意されたサイエンスの事実や考え方を使って描かれている。
IY: 私の言った「受け入れられない部分」というのは、表現は難しいですが、いろんな視点で見て、我々人間と他の生物、地球システム全体が非常に緻密に繋がっている、というこの世界観がなかなか受け入れられないという方たちがいらっしゃる。
上田: そのへん島薗先生に聞いて見ましょう。
島薗: 短い時間に全部を説明する、宗教というのは全部を説明するものなので、それに対応するようなインパクトがある。ですので、もし、それに抵抗を感じるという人は、たぶん、別の全部を持っている人、かもしれない。私は割とどんなものにも適応しているので、いろんな宗教の神話もそれぞれいいなあと思う方で、今日の映画は一つの神話として、力がある。今、自分たちのいる場所を教えてくれる、すべてのもとから。
MK: 科学的な見地からいうと、生命とはDNAの記憶みたいなことを言っていますよね。宗教学的には、いのちとはなんだと。DNAが記憶しているからいろんなものができているのか。
島薗: DNAの前から生命はあるわけですよね。DNAが入ることによって、時間というものが入った、記憶というものが入った、ということなので、そこらへんをどう理解するかは、まだぼおーっとしています。けれども、いのちそのものは、水ができ、水ができる前に地球ができ、というストーリーが全部あって、そのへんは知っているんだけど、全部一つのストーリーとして考えると、地球は大事だ。地球に生きて、我々、いのちがあって生きている。こういういろんな宗教が言っていることと重なるものがたくさんあって、やはりいのちの尊さを思うのではないでしょうか。
MK: 実は、シンギュラリティー、将来、AIが人間を追い抜くという話をしていて、ロボット展でやっていた技術科学大学の先生が、「ロボットのペッパーには心がある」と言い出した。私は文系の人間だから、「(心は)ない」と、30分も論争した。でも、あとから考えると、あるんじゃないのか、と思い出した。ですから、島薗先生がどう思っているのか、聞きたかったんです。
島薗: 百何十億年か、宇宙の歴史があり、その中で地球ができ、さらにそこに生物が発生し、大変な時間があるわけですよね。その中でできたものを、今の人間の浅知恵で(笑)、似たものを作れる、などと思うというのはそもそもとんでもないことで、そりゃ、だめだよ、と思う。(爆笑)
上田: 本当に私も見ていて思ったのですが、私たちの体のほとんどが水でできているとか、それから24時間の周期に支配されているというのは、まさしく、宇宙から地球がどうやってできたのかということを反映していますよね。そういう目で見た時、本当にさきほど島薗先生もおっしゃった、こうしたものすごく根源的な事実をちゃんと受け止めて認識しているということが、環境の問題でも宗教でも、いろんな価値を保つ場合の基本となっていくべきではないのか、という気がしてならないんですけど。
 でも、現実を見ますと、環境問題では、人類が本当に生き延びていけるのかどうかが今問われているところですし、宗教もいまだに対立が続いています。そういうものを乗り超える役割が、この科学が明らかにした根源的な事実にはあるのでしょうか。
島薗:

AIもそうですし、ゲノム編集や生命工学もそうですが、人間のできることに沿って、人間の世界を作るという考え方、で、科学が人間のできることを研究する科学になっている。人間が操作できるものをやる、結果が出るものをやる、結果が出るものの範囲だけでものを考える、というふうになってきていると思うんですね。
 しかし、今日みたいなことをしっかり、例えば、いのちというのは、あるいは人間なり、脳は、いかに長い複雑な過程を辿って、意図しないもの、それも背後に意図があるのかもしれないけれども、とても想定できないようなものによって、いのちはできている。我々はあるんだ、というそういう感覚ですね。AIというのは、我々が操作できるものを複雑化していって、結果が出せる最高に高度なものということですが、そういうものに人間が従属するようになるというのは、大きな間違いではないのか。という気がします。
上田: なるほど。今のお話伺っていて思うのですが、一つは科学の成果を利用するという観点から、うまく人間がそれを活用していけるのかという面がありますよね。一方、今日のような、本当に生命の根源にふれるようなものを、私たちが認識するというのも、科学のある成果を反映したからこそ、このストーリーが見えてきたという面がありますよね。そのへんどのように考えたらいいのでしょうか。
島薗: ですから、いのちの神秘に対する感動、が科学者も動かしてきたと思いますし、それによってわかってきたこともあるのだけど、同時に役に立つことをしなければならない、また利益の上がることをしなくてはならない、というふうに社会が変わってきて、科学の性格が変わってきているんですね。もちろん、こういう神秘に惹かれて科学を始めるのだけれど、それでは研究費はもらえない。そうなると結果を出さなくてはならない、そうなると科学がある方向ばかりに行くようになる、という心配はあります。
上田: そうですね。どうでしょうか。
YM: 私は医者です。77歳ですから、ずっと昔に大学で習った知識ですが。島薗先生と2011年の3月から福島のことでずっと一緒に仕事してきました。いいこと一つもなかったけど、一つだけ、個人的によかったのは、もう一度、この辺の勉強をすることになったんですね。それは放射能の問題を考えるには、いろいろ今の医学の知識も必要になって再勉強したということです。
 その勉強し直す中で、科学の中で本当に確定しているものがどれだけあるか、実はほとんどないのではないか、という思いをしたんです。
 たとえば、論争中の、人間の細胞の数。最新の本ではだいたい37兆個と書いてある。古い本では70兆とか100兆と書いているものもある。ここでは60兆個と言っていましたが、体重1kgに1兆個として、平均60kgとして60兆個となったみたいです。正確に数えると37兆というけど、そもそも正確に数えるとはどういうことか、わからない。
 たとえば、ウイルスが生物かどうかも、ずっと論争されている。そんなに確定した生物の定義があるわけではない。普通、我々が生物と定義しているものと、無生物の中間体。そういう意味ではどんどん変わっていく。
 大事なことは、一つは「共生」、もう一つは、人間が他の動物と違って「未来を考えることができる」ということ。記憶はできるけど、未来を考えることは人間にしかできないのではないか。その、未来を考えることができるのはプラスでもあり、マイナスでもあるけど。どういう未来を考えるかによって、今、何をすべきか、考え方が変わるわけですから。
 「共生」では、ミトコンドリアはもともと細菌であったとか、私たちの細胞核は、もともとウイルスではないかと言われているんですね。ウイルスが私たちの体に棲み着いて核になり、細菌が棲み着いてミトコンドリアになった。この「細胞内共生説」も確定した議論みたいですけど、異論もあるみたいですね。高校の教科書にも載っているらしいけど、いろんなところで若い方に聞いても知っている人はほとんどいない。ちゃんと教えられていないのではないか。私たちの体は、細菌やウイルスのキメラのようになっている。周りの生き物と「共生」しているということだけでなく、私たち自身が共生した生き物である。そういうことを認識しておくことは大事なこと。そのへんを掘り下げた映像を作ってくださるとよいのではないか。「共生」ということと、「未来を考えるということ」、そのことだけの映画を作ってもらってもいいかもしれません。
上田: たしかに科学の最新の知見が入ってはいますが、さきほどもいいましたように、科学は変化していくもの、次の発見があるとまた見方が変わる。生命の定義そのものも変わるかもしれないということを常に抱えている。そういう中で、私たちが何を学んでいって、次に自分達にとって価値あるものを創る時の土台にするか、という話になってくると思いますが。
●脳とDNAと記憶
島薗: 今の、未来の話ですが、さっき私が感動したのは、最後のテロップに出てくる・・「宇宙の記憶に還っていく」で、その前に、死のこと、宗教にとって非常に大事なのは死です。死について、どう向き合えるか。ということを宗教は持っているけど、科学はもしかしたら持っていない、でしょうね。でも、ああいう物語にすると、そこまで言えそうな気がするんですね。最後にちょっとそう感じたということです。一つは、そのことがあって、「宇宙の記憶に還っていく」・・そこが私の心の琴線に触れた、ということがありました。
 それから、未来ということをいうと、最後に脳が強調されたのだけど、日本の脳死論議の中では、人間を脳中心に見ることについて批判がありまして、本当に脳こそが人間のいのちの座か、ということがありまして、これは脳死の議論の中にあって、それは、キリスト教の魂と肉体、魂は脳にあるという考えに結びついいているのではないですか、という話がありました。そのことが、脳を強調すると、生物界の中の人間の位置を非常に上位に見ることになる。そのあたりはどう見たらいいのかなあ。
 まあ、生き物に宗教はあるか、象や猿に宗教はあるか、という議論がありまして、「ハチ公に宗教はあるのか」、ハチ公は死んだ人の霊を大事にしたでしょう、犬が人が帰るのを待っていて、見えないものを思い浮かべるように期待に震えているというのは、私は宗教に近いと思う。象は、親の死んだ場所に何度も何度も行って、そこの土を撫でたりする・・そういう話を聞いたことがありまして、目に見えないものを尊ぶ力は生き物にはある。その力を人間の脳だけにするのは、そこまで特別なものにするのはどうかなと思う。
 これはさっきのAIの話にもつながっていて、脳に、アルゴリスム的な、機械にもできるような人間の部分に、あまり過大な特別な地位を与えることには、やや・・どうなのかな。このへんももしかすると生物学のいろんな学説の中でまだまだ明確になっていないところがあるかもしれない。
SM:


「脳中心主義」みたいなものには私はちょっと・・批判ではないけど、記憶をするものが脳、とは言われてはいるけど、今では、生物の中で一番古いのは、腸管動物、そもそもは口と肛門だけのところから進化したのが人間だと言われて、腸が記憶する。臓器移植、特に心臓移植の場合、移植された人は提供者がもっていた記憶をそのまま移してしまう、夢まで見るという。なので脳を過大に出してくると、ちょっとどうかなという気がしなくはなかった。
 別の話題で、20世紀初頭のルドルフ・シュタイナーという思想家がいて、マクロコスモスとミクロコスモスの対応をどういうふうに私たちは実践としていけるのか、その思想を教育現場にもってきたシュタイナー学校の実践を、私は想起しました。
 もう一つ、DNAでは、DNAの修復機能はでていなかったんじゃないかな。自分的には被曝の問題もあるので、重要な関心をもっています。
島薗: まず、記憶の話ですが、強く私の記憶に残ったのは、今日のお話の中では、DNAはすべての生物にあって、DNAが記憶しているんだということで、DNAの数は人間と他の生物との間であまり違いはなかったですね。ですから、人間が特別ということはそんなに強くとらなくてもいいのではないか。ということと、DNAが記憶しているということは、本当に想像を絶する何かで、それを今解明しようとしているけど、おそらく人間が解明できることと、DNAが記憶していることの意味はかなり開きがあって、人間が届かないことが多いのではないかなと思いました。
 さっきの話とつながるのですが、自然科学が明らかにしたような宇宙の姿と、目に見えない尊いものの感じ方が、キリスト教とか、仏教でも、聖典に基づく尊いものの見方とはちょっと違う。科学は、おそらくは宇宙の神秘を明かすために、神が作った宇宙だから、そこにこそ神がある、それを明かすためにが発達した。ニュートンもデカルトも、あの頃の科学者も哲学者も、神を知るため、神の働きを知るためにこそ自然を研究した。しかし、だんだんと自然科学が、神の神秘とは離れてしまって、人間が操作できる世界、人間がわかる世界に限定するようになってきた。そういうプロセスがある。その中で、シュタイナーとか、テーヤールド・シャルダンという神学者もいましたが、あるいはホワイトヘッドという人たちは、自然の中に神がいる、自然の中からこそ神が表れてくる。それは日本人のアニミズムにも通ずるというとらえ方、もう一回、自然全体に目に見えないものがあるという方向を見直そうという動きが、21世紀になってでてきているのではないかと思います。ですから、そういう感性、現代の宗教とスピリチュアリティ、と今日の映画はどこか波長があうところがあると思います。そういうものを製作者の、アイカムの人たちがもっていらっしゃるんですね。(笑)
上田: 武田さんが持ってらっしゃる、宇宙に関する哲学というものだと思うんですけど。
●科学すること 物語ること
武田:


僕はミクロ撮影を始めて60年になるのですが、一番最初にアルバイトで東京シネマというところで映画「ミクロの世界」を撮影助手でやって以来で、今日の映画にも、菌と菌が絡み合って廻っているという実写の映像があるんですが、あれはただ一回みただけですね。他では見ていない。ほとんど細胞も細菌も、本気になって撮ろうとすると24時間バトンタッチしながら徹夜で撮るんです。だから、ミクロの振る舞いをみて、いろんなことを考える。たしかに菌と菌がコミュニケーションしている、情報交換している、これが面白いんです。
 僕は、そういうミクロの世界を見ていると、一つの物語がわりと素直につながっていくのではないかという気がしているのですね。昔は、先生方も「これを撮ってくれ、頼むよ」と言う形で頼まれて撮影していた。だから先生方もきちっと見ていない、おもしろさはライティング一つで、見え方が違うことと、その菌の動作が全くいままで見たことないことが突然出てくると、いろんなことを考えたい、それがおもしろいですね。
島薗: 最初に出ていましたけど、「動いているものがいのち」、いのちのはたらき。子供はすぐブーブといって喜びます。それから新幹線なんか大好きですよね。動いているものと感応する。動いているもの、自分の方で反応してしまう。いのちの響き合いみたいなもの。そういう感覚を、この映像を見ていると、ミクロの世界の中に、いろんなところで自分の中にある感覚と・・
武田: インターバルを取って、何秒に一コマ、10秒に1コマ、30秒に1コマととって追いかけるわけですが、ああいうふうに菌と菌が絡みあって廻っている映像はリアルタイムの動きです。ちょっとずつ、インターバル変えると、動き方も違いますけど、何コマ撮りしてもああこれはこうなんだなと思うけど、嘘だとは思えない。そういうリアルなものをどう見ていくか。想像していくかというのは楽しいですよ。それで60年続けてきたと思うのですけど。
上田: 私、今の武田さんのお話を聞いて、武田さん自身は科学者ではないけど、そうやって、ずっと観察して、それがどうしてだろうとか、これはおもしろいと感じる、そういう姿勢は科学者そのものだと思います。私も生物学でしたが、ものと向き合って、それが生物であっても、どういうふうに変わっていくとか、ずっと追いかけていくと・・
武田: 先生方とは違うんだけど、これはこうではないか、という思いが出てきます。(上田: 出てきますよね。)それがおもしろいですね。
上田: そこが僕は科学の醍醐味だという思いがしてならないんですね。
●いのちとこころ
HC: ナレーションの中に「いのちが生まれた、こころが生まれた」という言葉があって、エッ、いのちとこころと同時に生まれたの・・、さっき島薗先生が言われましたが、「ではハチ公にはこころがあったのか」、私たち、ハチ公には通じ合うような心があった、とイメージしていますが、でもそれは結局は、科学的には証明しようがない。あるいは確かめようがあるのかもしれませんが、お話聞いていると、細菌と細菌が絡み合う、ずっと見ていると、ここにたぶん、いのちがあって、こころと呼んでいいのかどうかわからないけど、物語が生まれる、物語を想像させるような何かがあると思われたのだと思うんですね。
 二作目のポイントは、目に見える、顕微鏡で見えるミクロコスモスを見せていただいたわけだけど、それでも見えない分子・原子・素粒子となっていった時に、はじめてマクロコスモスとつながっているというのが今の科学の到達点、そこで初めて、島薗先生の言われる宗教性があると理解していいんでしょうか。
上田: そういうことだと思うんですが、島薗先生、いかがでしょう。
島薗: まあ、いのちとこころというのは、こころのないいのちも、あるとは思うんですけど、どこから、いのちの中にこころが生まれたのか・・は微妙ではないかと思います。だから、それこそ、いのちが弱って死んでいく、と言う時に、そこにこころのようなものを想定するのではないでしょうか。草花がしぼんで、枯れていく時、人はおのずからそこにこころを想定しがちですね。それはまんざら間違いではないような気もしますね。とすれば、アメーバの中にだってあると考えても、というぐらいの感じですね。それがさらに、素粒子まで行くと、そこはかなり飛んでいるのだけど、もし、そういうものがアメーバの段階、あるいはウイルスの段階であるとすれば、全くの偶然、全くわけのわからないビッグバン、なのかもしれないけど、それは今の我々のいのちとつながっているという想像は完全に否定できないし、我々が未来に対して希望をもつとか、もっと良くなりたいと思う気持ちの元は、過去に投影する。神様がいると思うということと、無下に否定できない。私はそういう宗教に好意的な立場ですので、そう思います。
武田: ハチ公を知っている、ハチ公の物語を知っているから、こころが湧いてくるわけですよね。
上田: そうですよね。あたかもこころがあるように見える、ということですね。
島薗: ですので、できるだけ、自然なものと、こころを反応させていたいのだけど、ゲームの中にも動くものがある。(笑) ゲームにものすごく反応している現代人を見ていると何か違うなあという気がするんですよね。それは、私としては、人間が操作できるものの世界の中で動いていることに誤りがあるのではないかという気がする。
HC: 一つ、質問があるんですが、ミクロちゃんというのが膜分子ですね。細胞の「膜」というのに注目された理由は?
武田: 心臓にも膜はあって、核にも膜があって、細胞にも膜があって、一つの隔たり・・
HC: そうですよね。その膜って区別ですよ。区別があるのだけど、自と他というのが、そこでいろんな意味で行き交っていたり、一緒になったり離れたり、何かエネルギーが行き交っていたり、あるいは人間と共生するミトコンドリアとか。だから、自他を分ける膜のイメージは、私たちは人間同士、こんなに違うんだと分けているんだけど、実は、そうではない。自他の間は浸透している、膜が浸透性を持っている、そういうイメージはすごく重要だなと、すごい哲学的な発想のもととして、自他の共生を考えるときに重要だと思いました。
上田: なるほど、おもしろいですね。同じように感じられた方もいるのではないかと思います。私たちは個体として独立した存在のように見えますけど、決して独立はしていなくて、呼吸一つとっても外界とのやりとりが必要だし、食べ物もそうですし、先ほど出てきたバクテリアとの共生もそうですし、もしそれが全部視覚化されて、私たちの意識に上ってきたら、どれだけ個体認識が成り立つのだろうか、という感じもしますね。
島薗: これは勉強不足なので知ったかぶりをするような話なのですが、生物は複雑な組織を作っていって、複雑であるがゆえにいろんな機能を構成してきますよね。外界のいろんなものに反応する力も増えている。その複雑なものができるためには、ある境界を作っていくことによって、それが可能になる。それが膜ということの意味ではないかなと思うのですが、生物に詳しい方に聞きたい。
MK: さっき気になることをおっしゃった、科学と神と・・キリスト教もイスラム教も全部・・サムシング・グレートというのもあるけど、私ずっと見ていて、なんでこの細胞同士がくっついているのだろう、あれを見て、細胞が考えているのかな、と思っていた。小早川先生という方が、猫を怖がらないヘイマウスを作ったという。最後にDNAの話をされたとき、私が、「DNAのところで猫を怖がらなくさせたのは誰ですか? 神様かもしれませんね」と質問したら、その先生「そうだ」と言ったんですね。だから、生命も、何かを動かしているのは神なのではないか、と私は思っていますが、どうですか?
島薗: 膜ができますよね。地球上に水ができて、いろんな原生命みたいなものができながら、それが細胞になるとき、膜ができるという。その膜を作るのはミクロちゃんみたいな膜分子がたくさん寄ってくるのですが、その寄ってくるのはダーウィン的な発想で言うと、寄ってきた方が存続の可能性が高いのでそういうものが残っていく、と自然淘汰みたいな説明もできるけど、なんか「寄りたい」というものを生物はもっているので寄ってきた、その「寄りたい」という性格はどこから来るの、それはどっかから与えられたのではないの、とそういう感じにもなる。
上田: そのあたりに関連して、今、いわゆる「自己組織化」という概念がありまして、比較的単純な生体分子などが様々な条件のもとに自発的に複雑なシステムを組み上げて行く。モノとモノとがいろんな共同作用を生んで自律的な秩序を生み出して行く、という原理です。そういう原理と、もう一方、ダーウィンの進化論でいう自然選択がどういうふうに重なって、私たちが「生きている」といえるような組織化 された関係性、状態を作っているのか。まさ今、さかんに研究されているところだと思います。
島薗: そのへんは進化についていろんな説があって、やりとりしているということですね。ダーウィン的な人も、もっと自己組織化という人もいるし・・
上田: そうです。
MI: 今の、寄って行く性質があるという話。最初に素粒子ができ、星ができるために新しくできた原子が集まって爆発するという話がありましたが、なぜ集まるんだろう。(笑)
上田: そのように一般化できるかどうかわかりませんが、基本的には物質の性質からきているところはあると思います。池辺さん、いかがでしょう。
IY: 科学は人間の記述できる、理解できる言葉でしか記述していないので、すべてが分かっているわけではないですが。天文学・宇宙物理学の理解では、ヒッグス場が現れて、ものに質量が生まれ、質量をもったものがあれば、重力が引き合う、万有引力ですね。映画の中で4つの相転移という話がありましたけど、その4つの相転移の中で生じた重力という力が物質を集めるという現象となって、天体がつくられた。天体が作られると強い力、弱い力が活躍して、陽子・中性子がどのような姿形を変えて行くか、という反応が進んで行く。そういう説明がつくと、一応なっています。
上田:
という概念だけ聞けば(笑)、はあ、そうですか、という感じになるんだけど、例えば、ビックバンと言われたときに、みなさんは、無から何か生まれたの? 無なのにそこから何かが生まれるの? と当然、疑問をもちますよね。それが、この映像作品では最初、もやもやっとしたところに、ぼっとした光が現れて・・
宮川: 僕、音響担当で、音楽は堀悦子先生と分担したのですが・・ (島薗: 音楽も素晴らしいと思いました。) 最初、無のゆらぎがあった、というのがどうしても理解できなくて、いろいろ考えて、全宇宙の根源の力をもっても一切なにも揺らがない無は作れなかったのではないか。どうしても揺らいでしまう、と思ったときになんとなくあのシーンがちょっと理解できた。
上田: やはりそこはイメージの世界になってしまうと思いますが、科学がこれから解明していけるのか、という話にもなってきますね。
SM: 無とか、空とか、それはどういうことか本当にあることかないことかと思ったのと同時に、もし外国人への上映実績があれば、進化論者かどうか、キリスト教かイスラム教かもあるけど、全くちがう感想が出てくる気がするのですが・・
川村: これは英語版もあるので、外国人の方もご覧になっていて、そんなにたくさんの感想は聞けていませんが、日本人とそんなに違わない反応をされます。外国人だからといって抵抗はないようです。むしろ、フランスなどで見せたときには、アイカムの映画には東洋思想を感じるみたいです。
ただ、これまで、カソリック系のミッションスクールの校長先生にご案内した時、実際の映像は見ていない方ですが、生命の誕生についてはうちでは微妙だから・・と拒否された経験はあります。
上田: ミッション系の方が引っかかったのはダーウィンの進化論と「創造説」の対立を気にされたのでしょうね。
島薗: アメリカではニューヨークやカリフォルニアの人ならあまり抵抗はないけれども、中西部では学校でもインテレクチュアルデザイン説、意志あるものが宇宙を、生命を創ったということを、進化論とともに教えなくてはならない。ダーウィン主義を教えるなら、神が意図的に創ったということもありうる、両方教えなくてはならない。そういう世界もあるので、抵抗があるのではないか。あるいはイスラム圏に行けば、もっと違うのか。
 それに比べ、禅宗、道教とか、仏教の中には「無」から陰陽が現れ出るとか、そちらの方が自然なので、東洋人に合っている感覚。悠久の時間の中に、はじめも終わりもない、ビッグバンの前はどうだったの? ということもありますが(笑)、そちらの方が自然な感じかもしれません。東洋の感覚に合う、私はそう感じました。
SA: 指の形のところで出ていた話ですが、私たちの体内で常に細胞の自殺、アポトーシスが起きている。指がなぜ五本なのかもまだ、わかっていない。私、サリドマイドの障害で指が二本の人に「何か不便か」と聞いたらほとんど不便はないというんです。手のひらが無いのが困る。
 ああいう形にして、一部が死んで行かなくてはならない。私たちが生きていく中で常に死が繰り返されていって最終的に全部が死ぬ、ということで終わりになる。そういう死生観がとらえられる。
島薗: そこが今日のストーリーの中では、もう少し印象的に、生殖と死、というものが生物にはあって、それが進化につながるという話があってもよかったのかな。
DNAが無秩序に組み合わさって、非常に複雑な過程を通して、生殖によって新しい組み合わせに展開していく。死があるからこそ、生命の発展がある、循環するいのち、死があることを前提にして生物は生きている。そういう話はとても宗教に近い世界で、最後に死が出てきて、なるほどと思ったのですが、どうなっていましたかね。ストーリーとしては、ある程度、入っていた気もしますけど。はじめから、死が織り込まれるという。
SA: 死の意味ですね。
川村: 全体に難しいお話がいっぱい出ましたが (笑)・・この映画を作ったとき、チラシに「哲学し始めた子どもたちと、かつて子どもだった大人たちのために」と書いたんです。実際、小さい子どもたちはどう見てくれるのか。先ほどアポトーシスで指の形ができる話がありましたが、あれは小さい子どもたちもよく反応します。やっぱり不思議なんですね。死ぬことで形ができるんだ、とすごく感じてくれます。
 それから、小学校1年生になったばかりの、まだ文字で感想も書けない女の子が、お母さんにそっと言ったことをあとでそのお母さんが教えてくれました。「耳って、なんにもないところからできて来るんだね」と。これはすごく心に残っているんですけど。そんなふうに、みんな、いろいろ感じて見てくれています。
上田: ありがとうございます。そろそろ時間になりましたので、これで終わりにしたいと思いますが、最後に島薗先生、一言お願いします。
島薗: 本当に今日はこういう集いに参加させていただいて、ありがとうございました。実は、最初、ちょっと眠くなり、昼後の時間は年齢もあって苦手なんですが、必死にがんばって見ていたら、ますます冴えてきまして、楽しい時間をすごさせていただきました。ありがとうございました。  (拍手)
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